光秀の虚像 誕生の地岐阜を読み解く

数多くの文献に精通する本誌監修・小和田哲男氏に、あらゆる視点から読み解いた光秀像をはじめ、戦国史における岐阜県の特徴について語って頂きました。

信長家臣で一番の出世頭は、秀吉ではなく光秀だった?

明智氏の祖は、源頼朝と同じ清和源氏の一族で、美濃国守護の土岐家と言われている。

明智氏は代々、美濃国明智荘(現在の可児市・御嵩町)を治め、光秀はその地で生まれた説が最有力。
その一方で父親の名前においても3つの説があり、生まれた場所も岐阜県各所に伝説が残っている。

「歴史は勝者が作る」という言葉があるように、現代に歴史が正しく伝わっているかは判断が難しい。
山崎の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が光秀に勝利したことで、秀吉を美化した歴史が残っている可能性がある。

例えば『金ヶ崎の戦い※1』がそのひとつ。
戦況不利と見た信長が最小限の被害で抑えられるように、"金ヶ崎の退き口"と呼ばれる撤退戦を行った際の出来事。

歴史資料を見ると、秀吉自ら殿(しんがり)を志願して様々な策略を使って撤退したと伝わるが、実際には光秀と秀吉らに信長が命令したのではないかと言われている。

そして、秀吉以上に光秀が功を挙げて、織田氏家臣初の一国一城の主となり、『比叡山延暦寺攻め※2』においても光秀が中心になるほどに昇進したのだろう。

『丹波攻め※3』においても、『信長公記※4』に「丹波国、日向守(朝廷より賜わった光秀の官位名)働き、天下の面目をほどこし候。」と、信長が光秀の活躍を褒めている記録も残っているなど、軍事的な才能は天才的であった。

また、有職故実(古来の儀式・礼法の典型的方式。それを研究する学問)に長けて朝廷との取りまとめを任されたり、城作りや国作りを成功させたりと、信長は光秀の働きに一目置いており、重宝されていたはずだ。

※1金ヶ崎の戦い
1570年(元亀元年)信長が朝倉義景を攻撃した際、同盟関係にあった浅井長政に裏切られ、挟撃の危機に行った撤退戦。

※2比叡山延暦寺攻め
1571年(元亀2年)信長と浅井・朝倉連合軍との戦いにおいて、敗走した連合軍の兵が比叡山延暦寺に逃げ込み、それを匿ったことにより信長が怒り攻めたて、終いには比叡山を焼き払った。

※3丹波攻め
1575年(天正3年)信長は丹波の国衆を外交で取り入れようとするが、反旗を翻したため、武力行使するため、光秀に攻略を命じた。

※4信長公記
信長の一生を記録した史料。一部錯綜が認められる箇所もみられるが、文書上から確認される事跡を正確に記しているため、史料としての信頼が高い。

様々な憶測が今なお飛び交う、本能寺の変~山崎の戦い。

光秀がなぜ、本能寺の変を起こしたのか、その説はいくつかある。

信長のパワハラに対する"怨恨説"。
光秀中心の世を作ろうと考えた"天下取り野望説"。
勧修寺晴豊や近衛前久ら公卿(朝廷の高官)に唆された"朝廷黒幕説"。
京から追い出されていた足利義昭を連れ戻すための"足利義昭黒幕説"。
最近有力になりつつある、"長宗我部元親関与説"。

これは、光秀の重臣・斎藤利三の妹が嫁いだ長宗我部元親の四国全土の所領を認めてもらうため、信長と謁見させる仲立ちを光秀が行った。
そして「四国は切り取り次第」と所領を認めてもらったが、信長が心変わりをして、大名であった三好氏を復活させるため、四国一部を三好氏に与えようとした。
それに怒った元親が、光秀に信長を討たせるように仕向けたという。

私としては、朝廷が決めている暦に口を出すなど朝廷をないがしろにする信長の非道に我慢ができなかったからだと思っている。

本能寺の変後の山崎の戦いでは、秀吉に負けてしまったが、光秀が考えなしに信長を討ったとは考えにくく、想定外の連続が負けに響いたのであろう。

一つ目は、秀吉の『中国大返し』。
備中高松城(岡山県)にて強敵・毛利軍と戦っ天下取りている中、200kmを7日間で京都まで戻ってくるという早さに、戦の準備が間に合わなかった。

二つ目は、光秀の与力であった細川藤孝が誘いを断ったため。
娘の玉(のちの細川ガラシャ)を藤孝の子忠興に嫁がせていたため、味方になると思っていただろう。
そのほか、光秀の与力である高山右近や筒井順慶なども誘いに乗らず、軍勢が整わないまま合戦に突入してしまい、多勢に無勢で負けたのである。

軍事、産業の要所・美濃 美濃を制する者は天下を制す。

戦国史上、天下分け目の戦いといえば、前述した山崎の戦いに加え、関ケ原の戦いが挙げられ、戦地となった岐阜県美濃地方(美濃国)は、歴史に大きな影響を与えた地として語ることができる。

中山道が通る街道の要所、伊勢湾からの交易や木曽川を使った商品流通が盛んであるなど、経済の先進地として発展した美濃国。

穀倉地帯としても名高く、石高(土地の生産性を石という単位で表したもの)は、信長が最初に統治していた尾張国の54万石と変わらず、全国的にみても上位を誇っていた。

そんな豊かな美濃国に信長は目を付け、濃姫(帰蝶)の父・道三の仇討ちの意も込めて、美濃国の戦国大名・斎藤龍興の居城・稲葉山城を攻め落としたと言われている。
稲葉山城を含め、美濃国は独立の山が点在し、数多くの山城があった。

たとえ山が連なっていたとしても、堀を造って独立の山と見立て、山城を形成していた。

山城の利点は、重力を利用して弓矢や鉄砲を上から打ち下ろして城を守りやすいこと。
信長が美濃国を治めていた時代には、武田氏との戦の要所になった山城が東美濃に何ヶ所かあり、現代では跡地として、情緒を感じられる場所となっている。

美濃国は他国に比べて臨済宗が多く、学問寺である大徳寺や妙心寺の末寺がある。
孫子や六韜、三略といった兵法書が寺に置いてあり、僧侶とともに武家の子どもたちが学んだのであろう。

光秀もそのひとりで、学問寺で本に嗜みつつ、切れ者・道三の元で実践を学んだと言われている。
光秀が信長に才能を見出されたのも、真面目にコツコツと努力を積み重ねたのが実を結んだのであろう。

小和田 哲男氏の写真
小和田 哲男氏
PROFILE 1944年生まれ。静岡県出身。
日本の戦国時代を主に研究する、歴史学者・文学博士であり、静岡大学名誉教授。
数々の著書や論文、講演活動をはじめ、歴史ドラマや番組の解説、時代考証を担当。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、時代考証を務める。

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